三春・会津
三春 伊達正宗の正室 愛姫のふるさとで 愛姫の曽祖父田村義顕が三春城を築いた。町のあちこちに城下町の面影を見ることができる。現在は日本三大桜の「三春滝桜」をはじめ 桜の里として春は桜色一色に染まる。
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会津![]()
![]() 鶴ヶ城は 当初は黒川城とよばれ1384年芦名直盛が築城したといわれている。その後 城主は伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉明と変遷しその後保科(松平)正之が藩主となる。最後の藩主は 9代保科容保。戊辰戦争が起こり白虎隊の悲劇が現在も涙を誘う。鶴ヶ城は明治7年までにすべて撤去されたが 昭和40年復元された。 麟閣は豊臣秀吉の怒りに触れ 死を命じられた千利休の子・少雀を会津にかくまった。少雀の子孫によって武者小路千家、表千家、裏千家の3千家が興され現代に立っている。
![]() 源頼政と共に後白河天皇第二皇子高倉宮は平清盛対して反乱を起こしたが 敗れ新潟に逃れる途中に大内に立ち寄った。この里の風情が京都に似ているところから山本村と呼ばれていたのを大内村と改めたといわれる。江戸時代には 5街道のほか支線としての脇街道があり下野街道もそのひとつだった。大内宿は昼食時、休憩のための宿場として栄え、明治以降 交通事情の変化によって開発をまぬかれ昔の面影を今に残している。
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