旅路エジプト旅行(2010/10/10〜10/19)

田−カイロ(泊)−ルクソール(2泊)−アスワン(泊)−アブシンベル(泊)−アスワンー車中(泊)−カイロ(泊)−アレキサンドリア−カイロ(泊)−成田

エジプト概要
全国土の90%が砂漠の国がエジプトだ。空から見ると ナイル川に沿って緑のオアシスがつらなりグリーンベルトと呼ばれている。人々はこのナイル川沿いと北のデルタ地帯アレキサンドリアを合わせた国土の10%に住んでいる。
雨はほとんど降らず、3〜5月にはハムシーンと呼ばれる砂嵐がふく。通貨はエジプトポンド(£E)、1£E約15円くらいで その下がピアストル(pt),100pt=1£E。イスラム教徒は一夫多妻、4人まで認められている。一般的には夫が働いて生計をなし 女は家の中で暮らす、外に出るときは顔まで黒い布で巻き肌をさらさない。また宗教上飲酒が禁止されており 甘いお菓子を良く食べるためエジプトで一番多い病気は糖尿病だそうだ。 

 1日目 成田−カイロ
 2日目 午前・ギザの3大ピラミッド(クフ王、カフラー王、メンカウラー王)::午後オプション・メンフィス、サッカラ、ダハシュール

三大ピラミッド
今から4500年前の古代王国時代のピラミッドでクフ王のピラミッドは高さ146mと最大だ。この中に入ったが 通路が狭くなっているところがあり しゃがんだ状態であるかなければならないところもあって筋肉痛になってしまった。カメラは禁止なので映像はないが 特に壁画があるわけでもなく狭い通路を通って石棺の部屋にたどり着く。 通風孔があるがかなり蒸し暑い。カフラー王のピラミッドは 表面を覆っていた化粧岩が上部に残っていて保存状態がよい。ピラミッドはすべてこういった白い化粧岩で覆われていたのだが 壊れたり盗まれたりしてほとんどがなくなっている。一番奥がメンカウラー王のピラミッドだ。ピラミッドは即位したらすぐに作られ始め 親より大きなピラミッドを造ってはいけないという決まりがあり、また強制労働で作られたといわれているが 実際は農業などに従事できない雨季に報酬をもらって働いており 民にとっては収入源になっていた。また雨季の水を利用して大きな石も運びやすいという利点もあった。

 カイロ市内から見えるピラミッド  クフ王のピラミッド  カウラー王のピラミッド  3大ピラミッド

カフラー王のスフィンクス

カフラー王のピラミッドのスフィンクスは 現在鼻が削られ、あごひげもなくなっているが 愛嬌のある顔をしている。顔はカフラー王に似せて造られたという説もあり ファラオや神を守護する聖獣とされている。スフィンクスは対で建造されるのだが一体しか残っていない。

メンフィス・サッカラダハシュールのピラミッド群

サッカラの階段ピラミッド
古王国時代 BC2650年頃 ジョセル王は始めて石材を用いた墓を造り上げた。エジプトのピラミッドの中では最も古く それまでは日干し煉瓦や木材が一般的だったが 当時の宰相であり建築家でもあったイムホテブの登場により 巨大な石材が用いられるようになった。増築が重ねられて6段の高さ60メートルとなった。写真左の柱廊を抜けると階段ピラミッドの前に出る
ダハシュールの屈折ピラミッド・赤のピラミッド
屈折のピラミッド 赤のピラミッド
スネフェル王の建造したピラミッド。石を積み上げていく段階で計算違いで 急勾配にしすぎて上に積む石の重量を支えきれなくなったため途中から角度を小さくした。下から49メートルまでは54度、そこから上は43.22度ある。BC2600年に造られ高さ105メートルある。
スネフェル王の2つ目のピラミッド。鉄分の多い赤みを帯びた石灰岩を使ってある。このピラミッドは砂を落としてできる砂山の角度とほぼ同じで43.22度、安定感抜群の形をしている。屈折のピラミッドと同じく高さ105メートルだ。
メンフィス博物館
メンフィスは古代王国時代の首都として栄えたが、今では廃墟となっている。メンフィス博物館にはラメセス2世の巨像が横たわっている。王の像の足を支える妻の手は夫を愛していつも夫と共にいるという妻のメッセージ。建物前の庭には1912年に発見されたスフィンクスや石棺などの発掘物がある。絵や像の表現の決まり事として 生きている者は左足を前に両手は握り横に、死んでいる者や神の場合は両足をそろえて手を胸のところで重ねた姿にする。
 ラメセス2世の巨像 ラメセスの足を支える妻の手  スフィンクス   ラメセス2世の立像

3日目 ルクソール(ハトシェプスト女王葬祭殿・王家の谷)
ルクソールはかつてテーベと呼ばれ 中王国、新王国末期王朝時代の一時期 首都として栄えた。中王国時代まではピラミッドが盛んに建造されたが 新王国時代には王家の谷のように岩を掘った墓と 葬祭殿にわかれた

 メムノンの巨像

 新王国時代のアメンホテプ3世のもので 2体で1対
もともと巨像の後ろには彼の葬祭殿がああったが 後の王たちによって
石材として利用され破壊された。
ハトシュプスト女王葬祭殿
エジプト初の女王ハトシェプストは トトメス2世の死後幼いトトメス3世の摂政となったが その後王(ファラオ)となった。通商に力を注ぎ その様子は壁画からも見ることができる。
砂漠の中に点在するピラミッドと ナイル川沿いにのみオアシスが帯状に存在する風景が とても不思議で印象的だった。
 ハトシュプスト女王葬祭殿全景  柱廊  壁画・・・色彩は当時のまま
 ハトシュプストの顔をした神列像  葬祭殿への坂道  砂漠地帯とナイル川沿いのオアシス
王家の谷
すべての墓は新王国時代に岩を掘って造られたもの。ファラオたちは盗掘を恐れ、死後の安住の地を奥深い谷に求めた。全部で60箇所くらい発見されているが ほとんどの墓は盗掘にあい唯一残ったのが有名なツタンカーメン王の墓だった。彼のお墓があると知らず他のお墓が上に作られたため見つからないですんだらしい。彼は18歳で早世したため 権力もなく質素だった言われているが それでもかなりの副葬品があり 強大な王の墓は想像ができない
ルクソール自由行動
ルクソール神殿(入場せず)とルクソール博物館に徒歩でいった。自転車を借りる予定がわからず徒歩になった。
ナイル川沿いをずっと歩いたが タクシーや馬車、ナイル川帆船クルーズなど片道100人くらいに声を掛けられ、断りつつ呼び込みを掻き分けて歩くような状態だった。しつこくはないが 次から次から入れ替わり立ち代り声を掛けてきて まっすぐに歩けないほどだった。ルクソール博物館には2体のミイラがあり きれいな状態で展示されていた。死後安らかに眠れているのだろうか、静かに眠るはずが遺体をさらされて本人達はどう思っているのだろうかと考えてしまった。
帰り道のナイル川に沈む夕日はものすごくきれいだった。カルナック神殿に行けなかったのが本当に残念だった。
ナイル川 観光用帆船 ルクソール神殿 ルクソール神殿 ナイル川の夕日

4日目  ルクソール− エドフ − コム・オンボ − アスワン
ホルス神殿(エドフ) 
ホルス神はハヤブサの姿で表される天空の神でオシリス神とイシス神の子供だ。神殿前には対のホルス神像が立って
いて、高さ36mの巨大な塔門は遠くからでも見ることができる
前室の天井が黒くすすけているのは イスラム教社会で
キリスト教がまだ認められていない頃 キリスト教徒が隠れ住んで煮炊きをしていたためだ。ホルス神の顔をけずったり、
十字架を彫った跡が残っている。
塔門

塔門には大きなスケールで
刻まれた
レリーフが残っている
中庭

 パピルスをモチーフにした
柱の装飾は
それぞれ少しづつ違う
柱の装飾 ホルス神像 ホルス神像 すすけた天井 レバノン杉の聖舟 回廊
コム・オンボ神殿
プトレマイオス王朝時代にたてられた神殿で ワニの頭を持つセベク神とハヤブサの頭を持つホルス神に捧げられた神殿だ。この神殿はちょっと変わっていて 普通は真ん中に通路が一本あるだけなのだが 塔門の入り口、部屋の入り口もふたつづつ、至聖所も南北ふたつある。神殿全体が二重構造になっており セベク神とホルス神のために建てられたからといわれている。ナイルメーターは水位によってナイル川の氾濫を予報した。
塔門 ナイルメーター
壁画が面白い。描き方も石にただ文字や絵を彫るだけではなく 立体的な表現に変わってきている。
ナイルの水で清める
即位の儀式
南エジプトと北エジプトの統一 出産  授乳  暦
イシス神殿
ナイルよりイシス神殿を望む 塔門前 塔門 一番奥が至聖所 ホルス神に授乳
するイシス神
イシス神殿はフィラエ島にあり イシス神がホルス神を産んだ聖なる島とされていた。この島は アスワンハイダムがで
きて水没する運命にあり となりのアギルキア島に移転された。ナイル川にある島なので船で渡るしか手段はない。

5日目  アスワン−アブシンベル(移動日)
ルクソールのテロ以後 エジプト国内の至る所に観光警察が配備されている。
アスワンからアブシンベルへバスで移動したが 前後を観光警察の車両に警備されながらの移動だ。決まった時間になるとアブシンベルへ行く観光バスが一同に集まり 荷物検の後一列に連なっての移動になる。この日はとても暑かったので 蜃気楼がたくさん見えた。左の写真・・水のないところが まるで海のように見える。
アブシンベル神殿の光と音のショー
アブシンベル神殿の音と光のショーはライトアップし 神殿をスクリーンにして歴史絵巻のようなものがたりを構成している。アスワンハイダムに沈む運命だったのをユネスコによって救済されたことからはじまって、ラメセス2世とネフェルトリアリのむつまじい夫婦愛や治世、周りの民族との争いなどラメセス2世の偉大さ、権力などを音と光で表現するショーとなっている。日本語で聞けるイヤホンガイドもある。

6日目   アブシンベル−アスワン−アスワンからナイルエクスプレスでカイロへ
アブシンベル神殿で朝日を見た後 大神殿、小神殿の見学。
一枚岩からできた大神殿は 3300年ほど前 ラメセス2世よって建造された。彼はルクソールにはルクソール神殿、
カルナック神殿などを残しており 強大な権力を持っていた。正面の4体のラメセス2世の像は高さ20メートル、いか
に巨大な1枚岩であるかがわかる。内部は8本の大列柱室、前室、至聖所になっている。大列柱室は高さ10メート
ルのラメセス2世の像からなっており、戦いの弓を引く壁画はスローモーションのように手が数本、馬の足も走ってい
る様子を表すために数本で描かれているのが面白い。至聖所には4体の像があり左からラー・ホルアクティ神、ラメ
セス2世、アムン・ラー神、ブタハ神で年2回(2月と10月)だけ入り口から入る朝日がこの像を照らすように設計され
ている。ただホルアクティ神は闇の神なので光は当たらないようにと緻密に計算されているのがすばらしい。小神殿
はラメセス2世が王妃ネフェルトリアリのために建てた神殿。
大神殿
アブシンベル神殿の朝日 大神殿 ラメセス2世の像 門から見た内部 ナイルの鍵を持つ門番
小神殿
小神殿 像のアップ 小神殿内部 手前・小神殿 : 奥・大神殿
アスワンハイダム
シンボル塔 車止めからダムを望む ダム ダム
切りかけのオベリスク
古代の石切り場にオベリスクを切り出そうとし ひびが入ったため途中でそのまま残されており 当時の石きり技術がわかる。まず石に切り込みをいれ そこに木の楔を打ち込み 湿らし膨張させて石を割るという方法で石を加工、切り出していた。このオベリスクは長さ42メートル、1168トンもあり 完成していればエジプト最大だったと言われている。 
アスワンから一等個室寝台にてカイロへ
アスワン発 洗面台 個室寝台通路 板の食卓 カイロ着

7日目   オールドカイロイスラム地区−エジプト考古学博物館−ナイル川ベリーダンスディナークルーズ(オプション)
イスラム地区
オールドカイロはカイロ発祥の地で独特の雰囲気をもつ地域だ。ここには今でもコプト教徒が多く住んでいる。コプト教とは原始キリスト教の流れを汲み、エジプトがイスラム化していく中でもキリスト教を守り、古代エジプト語を源流とするコプト語を守った。現在では日常的にはイスラム教徒と変わりなく宗教行事以外はアラビア語を使い、総人口の1割ほどと推定される。もともとエジプト人の国にアラブ人が入ってきて今のエジプトになった。
ストゥーフ門 ナスル門 ガーマ・ムハンマド・アリ 路地 路地
エジプト考古学博物館
撮影禁止のため 博物館前の写真のみ。
博物館の中は1階と2階のフロアーがあり、出土品や埋蔵品が所狭しと陳列してあり、余りに多すぎて ゆっくり見ていると1日では見きれないほどだ。
なんといっても 見所はツタンカーメンの出土品だ。ツタンカーメンのミイラは4重に重なったの厨子を開けると石棺がありその中に宝石のちりばめられた人型の木棺が、2重になっていて最後に純金の人型の棺となんと8重になった棺の中に納まっていた。頭には有名な黄金のマスクがかぶせられていた。そして石棺の上とそれぞれの人型棺の上に矢車菊の花束がおいてあり それもきれいに残っていた。まばゆいばかりの装飾品や玉座、また折りたたみ式簡易ベッドなどの生活用品も多数出土している。
エジプト考古学博物館 前庭のスフィンクス
ナイル川ベリーダンスディナークルーズ
2時間の予定でクルージング&ディナーを申し込んだ。
ベリーダンスや民族ダンスを見ながらクルージングするというものだった。これは 期待はずれ!ベリーダンスもトルコでみたほうがずっとよかったし、食事はおいしかったけれど ちょっとでも皿の上の食べ物がなくなるとすぐ下げに来て せわしない。しかも1時間しかなく 2時間ではと聞くと誰が言ったかと逆切れ、話にならない。
 船会社にもよるようで 他の船なら良かったのかもしれない。

8日目  カイロ−アレキサンドリア−カイロ

アレキサンドリアはカイロにつぎエジプト第二の都市、ナイル川に挟まれたデルタ地帯で土地は肥沃で農業に適している。典型的な地中海都市でエジプト国内からはもちろんヨーロッパ各地から観光客が押し寄せ休養地となっている。アレキサンドリア最後の女王がクレオパトラで ローマの征服を受け繁栄したが、その後ローマに支配競れ・7世紀にはアラブ人の侵入を伏せいだ。どこかヨーロッパの香り賀漂っている。
ポンペイの柱
ローマ皇帝が建てた図書館の柱の1本とされている。
高さは27メートル、かつては400本はあったといわれており 天を突き刺すように建っている。
カタコンベ
もとは貴族のお墓だったが3世紀以降共同墓地となった。井戸のような入り口を入り狭い階段を下りていくといくつもの小部屋に分かれており石棺がおかれている。裕福な者は石棺に彫刻を施した。
(門から中は撮影禁止)
カタコンベ入り口 彫刻された石棺 外観
アレキサンドリア博物館
展示物は多くはないが 海底からの発掘物は見ごたえがある。撮影禁止。
カイロ駅
開発中のカイロ駅前 駅構内売店 構内 駅構内の飲食店 1等列車
アレキサンドリア駅
アレキサンドリア駅 駅構内売店 1等列車 1等列車内
 
9日目カイロ・・・午前中自由行動(オールドカイロ  コプト博物館、聖ジョージ修道院、ムアッラカ教会) 午後成田
コプト博物館
コプト教とはエジプトキリスト教のことでイスラム教が大多数を占めるエジプトで現在も数百万の信徒がいる。キリスト教がローマ語を言語としているのに対し コプト教は宗教関連はコプト語を使うが 日常はアラビア語を話している。
聖ジョージ修道院
この教会はイエスの家族が難を逃れるためにエジプトに渡ったとい新約聖書の伝承の一行が 身を寄せた場所に建っている。この場所には他にも多くの教会があり、この伝承によるるものである。
ムアッラカ教会
コプト教の教会でキリスト教の教会とはあきらかに違い 門や壁はモザイクを多用してある。中は薄暗く イコンと呼ばれる数多くのキリストや聖母マリア、天使などの絵が飾ってあった。
この教会一番のイコンは赤い布に描かれていた。天井は木製の舟形をしていて柱が8本あり これはノアの箱舟に8人乗ったことが由来だそうだ。
地下鉄 コプト博物館 聖ジョージ修道院 修道院内部 修道院内部
ムアッラカ教会 教会のイコン 舟形天井 教会内部 地下鉄キルギス駅
10日目  −成田

エジプトこぼれ話
両替
空いている時間は8:00〜14:00、観光地ではその他に18:00〜20:00。エジプト£に両替の場合手数料なし。
ほとんどの国は土・日曜日が休日だが エジプトは金・日曜日が休日なので要注意。
チップとバクシーシ
チップは感謝の気持ちでだすものだが 結構要求されだすと出さないとでは対応がまったく違う。観光地でも頼みもしないのにサービスを受けさせられたり 写真を取らせてくれたりしてチップを要求される。それは警官が見ていても何も言わない コネの世界らしい。イスラム教の教義の富める者が貧しい者へ施すのは当然だという考えが湾曲されて解釈されているためだ。
イスラム教とキリスト教
エジプト人の90%がイスラム教、後の10%がコプト教を含むキリスト教徒だ。イスラム教徒の男性はガラベイヤと呼ばれる長袖ワンピース状の服とターバンを巻き 女性はスカーフをかぶる。キリスト教徒は普通の服装なので一目で見分けることができる。また「ラマダーン」と呼ばれる断食月があり 太陽が出ている間は飲食をまったくしない。太陽が沈むと同時に食事をとる。ラマダーンが明けると「イードル・フィルト」と呼ばれる日本のお盆や正月のようなお祭りが3日間ある。
エジプトの結婚
結婚は宗教上の問題があり イスラム教徒同士でないとできないので 男性がキリスト教徒の場合改宗しなければならない。またイスラム教徒は一夫多妻、4人まで妻を持つことができる。結婚しても生活費はすべて男性が稼がなくてはならず、仕事時間が9:00〜14:00と短く給料も安いため 夜他のアルバイトをしないと食べていけない。生活費は平均10万円くらいだが大学卒初任給は3〜4万円ほどだそうだ。また田舎の結婚は平均男18歳くらい、女16歳くらいでお見合い結婚がほとんど。結婚が決まってから1年後くらいに式をあげる。婚約期間はデートも家族がつきそう。都会では最近恋愛結婚も増えている。
田舎の生活
田舎⇔都会に移動するときは検問があり 移動の目的など厳しく問われる。田舎の家のつくりは1階平屋建てで壁はナイルの土を型に入れて固めた日干し煉瓦、屋根は作らず椰子の葉で覆うだけ。雨は降らないし風通しなどから考えても理にかなった家作りだ。
商売
なんでも売り物になるようで 車のボンネットだけを切り取って売っていたり、中古ドアだけ、中古ハンドルだけと日本では考えられない物が売られていた。日本製は品質が良いことで商品価値がとても高いとの事。よく現地の人にボールペンちょうだいとねだられた。
エジプトのお守り
スカラベ(ふんころがし)太陽を神とあがめる古代エジプトでは 朝太陽と共に活動し丸い玉を作るふんころがしは神の使いとされた。玉=太陽(一度沈んでも朝になると又新しい太陽が顔を出す=うまれかわる)とされ 死人の胸にふんころがしを乗せると生まれ代わることができると信じられていた。他にナイルの鍵などがある。


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