高崎
高崎市は 人口34万人を超える 群馬一の市である。また江戸時代以来の城下町で 中仙道の宿場町でもあった。また三国街道と中山道の分岐点で 交通の要所であり鉄道が開通するまでは 道路だけでなく水路も重要な交通手段であった。このような立地だったため 多くの商人も集まり商業都市としても栄えた。高崎城主も情報収集の意味も含め商人を大事にしたためさらに商業も発展した。江戸時代より現在まで続く商店も点在している。 高崎市は中世以来 和田氏が治めていたが 上杉家、武田家、織田家、北条家、徳川家と従属をつぎつぎと変えなければ生き残れなかったほどの小藩であった。徳川家康の命により 井伊直政が城主として入封し 箕輪城から高崎城に居城を移した。 高崎の名の由来は 「和田」と呼ばれていた地名を「松ヶ崎」とあらためようとした井伊直政は龍門寺の住職に相談した。松は枯れるが高名はかれることがなく 高崎のほうがよいと進言し高崎の名がついた。 |
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諏訪神社 珍しい土蔵造りの神社、江戸時 代、度重なる火災から守るため 建てられた。漆喰の飾りも美し い。境内の石造りの蔵には高崎 祭りの山車が保管されている。 |
高崎城の三の丸堀 かつての高崎城の面影が偲ばれる。 春には桜が咲き誇り 水面に美しく映 え、花見客でにぎわう。 |
土塁 三の丸堀の土塁。土塁の上は遊歩道 になっていて、散策路としてお勧め |
乾櫓・東門 城内に出入りする武士や商人の通 用門としてるかわれていた。櫓は17 世紀に現在のような二階建ての櫓に 造り直された。 |
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高崎神社 | 長松寺 徳川忠長自刃の客間がある。今日は法事があり見ることができず残念だった。 また江戸時代狩野派絵師・狩野探雲作の龍や天女の絵がみごとだ。(右 天女図) |
徳川忠長の墓 お家跡継ぎ問題で 家光に敗れた忠長は井伊家に預けられ嘆願もむなしく自刃した。家紋はみつば葵だが 徳川家に反乱した罪人でもあり 葉脈のない裏三つ葉葵紋(右)である。 |
老舗 火災で多くが焼失し 現存するものは残念ながら少ない
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水村園(1857年創業 茶舗) 店舗奥の水道栓やレンガ造りは有形文化財となっている。レンガ積みを イギリス積み(蔵)、フランス積み(湯殿)、ドイツ積み(隣家)3方式を一箇所で見ることができるのはめずらしい。また初めてひかれた水道栓は未だ現役で使うことができる。昔の広告や茶壷など店内に展示してある。試飲した水出しほうじ茶は ほうじ茶とは思えないいおいしさだった。血糖値を下げる効果があるとか。 |
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金澤屋 (1836年創業 寝具専門店) 宿場町の高崎には寝具の需要が多く寝具店として繁盛した。現在は2階でよ理想的な眠り を目指した寝具づくりをしている。1階は風格ある梁や柱のある店舗で 綿打ち具などを利用して素敵な手作り品ギャラリーになっている。昔のレジが入り口にあった。 |
麹屋 蔵造り店舗麹を夏、ご飯に混 ぜておくと 甘酒になる。甘酒 は本来夏の食べ物だそうだ。 |
1階は作り変えられてい るが 昔の旅籠 |
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駅横の壁 だるまの街高崎 高崎だるまの特徴は 眉は鶴、髭は亀で書かれて いて 縁起物として重宝されている。 |
群馬音楽ホール 能舞台 | スタンプラリーの景品(3種類あり) 7/1〜9/30まで行われている機関車スタンプラリー 指定店舗のなかから3店で買い物をしてスタンプを もらうと 達磨がもらえる。 |